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部屋の記憶

「今日の墓場をつくろう」
 深夜3時をまわって、そろそろ寝ようかと狭いベッドにふたりで潜り込んだ矢先、ムツが突然そんなことを言い出した。深夜3時なのでムツの言う「今日」というのは正確な名前で呼ぶなら「昨日」のことなのだろうけれど。
「…いいけど、墓標はどうするの?」
わたしはため息混じりにそう言って、胸まで引き上げていた布団から片腕を出し、軽く振り下ろしてボンっと掛け布団をへこませた。ムツはもぞもぞと体をこちらに向けて、甘える女みたいな気持ちの悪い上目遣いでわたしを見て言った。
「…めんどくさい?」
「面倒なんかじゃないよ。ムツの為ならなんだってするって約束したよ。」
誰が聞いてるわけでもないが、電気を消した部屋ではいつも小声で話しをした。少し顎を出せば唇が触れてしまうくらいの狭い世界で、いまだに抜けない東北訛りがふたりぼっち、ひそひそと話す言葉だけがわたしたちのすべてだ。

 目が醒めるとムツは隣にいなかった。部屋中に広がる珈琲の良い香りのおかげで、ムツは部屋から出て行ったわけではないことがわかりホッとした。まだ眠っている体を無理矢理に起こしたが重くて鉛みたいだなと思った。霞む目を細めると、3畳ほどの狭いキッチンで椅子にも座らず立ちながら珈琲を啜り、煙草を吸っているであろうムツの背中を確認して更に安心した。
 珈琲の湯気と煙草の煙が膨れ上がってムツが霧の中にいるみたいだった。ムツの見つめる先は真っ白で空っぽだ。ムツ、ムツ、わたしはムツを必死に呼んでいるつもりが声帯が潰されて声が出せない。餌をねだる鯉のようにぱくぱくと口を大きく動かし唾液と涙でドロドロだ。ムツはわたしを見ずに空っぽの方向へ進んで行ってしまう。左手を伸ばすと手首が血だらけで、ヒッと悲鳴を飲み込んだと同時に手首に激しい痛みが走り鈍痛が全身を襲う。白いはずのベッドカバーが血で真っ赤に染まっていることに驚いてベッドから転げ落ちた。状況はわからないがこれが死か?よくわからないことが死なのか?走馬灯のように思考が巡る。のたうちまわりながらもムツのいる方向を眼球だけで探した。どんどん先へ行ってしまうムツ。行かないで、わたしを置いて行かないで、わたしをひとりぼっちにしないでと顔をぐちゃぐちゃにしながら心で叫んでいると、遠くで真っ白になってしまったムツが振り返った。
「僕が進んでいるのではなくて、お前が後ろに下がってるんだ。いつも逃げやがって。僕をひとりぼっちにするのはお前だろ」

揺さぶられている感覚で目が覚めた。
「おい、なした?大丈夫?」
怪訝な顔をしたムツがわたしの頬に手を当てていた。どうやらまたやってしまったらしい。
「ごめんムツ、わたし、またうなされてた?」
「いや、うなされていたっていうか、苦しそうに叫んでた、言葉にはなってなかったけど…またおっかない夢でも見たの?」
寝てる最中、幾度となく泣き叫ぶわたしを心配し、ムツは嫌がるわたしの手をひいて精神科に連れて行ったことがある。「悪い先生じゃないから」とわたしを慰めてくれた。夜驚症と診断されたわたしはその日の夜から安定剤と睡眠薬を飲んでいる。薬がないと眠れなくなってしまったわたしは医者の思う壺だ。

 ムツが淹れてくれた珈琲を啜った。わたしたちの生活は寝起きに飲む一杯の珈琲から始まる。

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