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初雪の記憶

 足が冷たい、というか痛くなってきた。この地の寒さを舐めていた。初雪は明後日の予報だが、今この瞬間に雪が落ちてきそうなくらい寒い。
「寒い?震えてる」
いや、大丈夫よと答える。小さく開けた唇の間から一気に冷気が流れ込んできた。
街灯が少なくて暗い海沿いを歩いている。後ろに流れる白い吐息を横目で見ていた。
「僕やっぱ寒いわ、どっか入ろ」
きみがそうしたいならいいよと答える。

 ムツは性格は悪いが優しい。いつも強がって張り合っているわたしのために先に折れてくれる。
酔い覚ましのために海沿いを歩こうと言ったのはわたしだったから、寒いからといって夜の散歩を中断するわけにはいかなかった。いつもそうだ、ムツはいつも気付いてくれる。試しているわけでは無いが、この安心感というか心地良さの中毒になってしまった。

 どこに行こうかと会話も無く、いつもの喫茶店の方向へ歩き出す。老舗の喫茶店で、細くて急な階段を登った先に木製の小さな入り口がある。
階段に気をつけてねなんて言葉は無いけれど、いつもわたしを先に登らせる。後ろから少し緊張しているような空気を感じて、わたしはいつも急いで階段を登る。
 ここの喫茶店の名物はキーマカレーなのだが、さっきまで居酒屋で飲み食いしていたからお腹がいっぱいで迷わず珈琲を単品で頼む。ムツは少し悩んで、キーマカレーとアイスコーヒーを頼んだ。店員が下がったのを確認して、ふたりで小さく笑った。
「おなか苦しいんだけど、カレー食べたくなっちゃって。この店もきみとしか来ないから、次はいつ来れるかわからないし」
「カレー食べた後はアイスコーヒー飲みたくなるし、あんま冬に飲む機会もないし、まあ…せっかくだから」
「アイスコーヒーって日本発祥なんだよね…ってきみが教えてくれたんだっけ」
ムツは嬉しそうに饒舌に話し始めた。少し困ったような顔で、半分笑って、こういう時は何も聞いて欲しくない時だ。何も聞かず、ただ黙ってムツの顔を眺めていた。
わたしの珈琲と、ムツのキーマカレーが運ばれてきて、気を利かせた店員がわたしの前に小さい取り皿とスプーンを置いた。
「一緒に食べてくれる?ほんとはお腹いっぱいなんだよね」
笑顔でそう言って、カレーを取り分けてくれた。

 半分くらい食べ終えて、窓の外を眺めていた。それに気が付いたムツもスプーンを置いて、大きな窓の外に目線を移した。ちらちらと白くて小さな雪が舞い落ちている。
「ああ。やっぱり降ったんだ。初雪だ」
…天気予報は当てにならないねと答えた。そういうことじゃない、そういうことが言いたいわけではないのに。

 初雪をふたりで眺めていた。
店員がラストオーダーですがと声をかけに寄ってきた。わたしたちは同時に大丈夫ですと返事をして、店員が少し微笑んで下がっていった。

これからどうしよう、初雪の中を歩きたいな。そう言ったら、今日はじめて目が合った。
「きみは、どうしたい」

「外は、寒いよ」

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